ふりびしゃにっき

四間飛車を愛するアマチュア将棋ファンが、気が向いたときに書くブログです。

ぼくの将棋歴③

ぼくの将棋歴② - ふりびしゃにっきの続きです。

 

【小学5年生冬 7級】

将棋教室に入会して思ったのは、「遅すぎたかもしれない」ということだった。

当時、2級とか3級くらいには小学3年生くらいの子たちがたくさんいた。ぼくよりずっと近道をしていた彼らは、センスの塊のような将棋を指している。どんなもんかとおもい、教室が終わった後に指してもらった。ぼくの四間飛車は簡単に粉砕されてしまった。それはあまりに絶望的な差だった。

 

心の支えは藤井先生だった。藤井先生はほかの羽生世代の棋士よりも遅く将棋をはじめ、独学で強くなったということを知った。「俺には彼ら(いわゆる羽生世代)のようなセンスがない。」とは藤井先生の言葉である。ぼくはひどく共感した。

「先輩」たちの処理速度、定跡の理解度、寄せの速さには到底及ばない。でも、埋められない差じゃないと思っていた。

 

自分の力にはそれなりの自信があった。だから、思うように昇級できない自分がもどかしかった。

「5級の力はある」と言われて入会したけど、初めての躓きは8級だった。

思い返せば、ずいぶんと雑に将棋を指してしまっていた。先生の懸念通りだった。負けを取り戻すためにその日のうちにたくさん勝っておこうとして、短時間で勝負をつけにいって自滅したりもした。気が付くと年を越してしまっていた。

 

どうしても、2月までに7級に上がりたい理由があった。

こども将棋教室では、外部の大会があると、級位に応じて出るクラスが割り振られていた。そして、格の高い大会では、一定の級位に達しないと出場させてもらえない、「足切り」制度があった。

2月の小学生県大会の足切りラインが7級だった。7級以上なら、どんな大会でも足切りにかかることはない。教室の中で「7級=一人前」の空気があった。

一人前認定を受けるだけでなく、5年生のうちに、1度でも県大会の場を経験してみたかったのもある。7級に見合う実力があることは自他ともに認めるところであっただけに、焦りもプレッシャーもあった。こんな経験初めてだった。

それだけに、ぎりぎり滑り込みで7級に昇級できた時は、すごくほっとしたし、うれしかったことを覚えている。

 

県大会では一番下のCクラス(3級以下)に出場した。今までの経験から、それなりに戦えるだろうとは思っていたが、ぼくより級位が上のチームメイトを差し置いて、準優勝することができたのは想像以上だった。この出来事は大きな自信になったし、教室の中に居場所を作る礎にもなった。

 

 

【小学6年生 教室での日々】

教室は土曜日の13時30分に始まり、16時30分くらいに終わる。

最初に宿題の答え合わせをして、プロ将棋界(タイトル戦の結果など)の動向や、外部大会の案内(クラスの割り当てもここで発表される)、参加した大会結果の振り返り、「礼儀作法・所作」についての指導の後、対局。最後に事務連絡(外部大会の最終確認など)と宿題配布があり終了となる。

教室の会場の隣には神社があり、教室が終わった後にはチームメイトと鬼ごっこをしたり、時には居残りよろしく将棋を指したりした。

大会のときは遠足形式で会場まで一緒に行き、勝った喜び、負けた悔しさを共有した。大会で全敗してしまったときには、普段は見守り係の先生がぼくを呼びつけ「将棋を指そう」と言い、終わった後で「いい将棋だったぞ」とほめてくれたりした。

独学では得られない仲間、得られない経験がそこにはあった。

 

序盤は長らく苦手だったが、本格的に序盤を勉強したのも、ちょうどこのころである。

教室の友達の中で定跡書を読むことがステータスになっていた。

ぼくもご多分にもれず、「島ノート」「四間飛車の急所」といった名著を繰り返し読み、盤面に再現して、苦手克服に努めた。特に島ノートは、かつての入門書がそうであったように、ボロボロになるまで繰り返し読んだ。

 

今でも相変わらず序盤は苦手分野だが、この頃の経験が今の将棋の支えになっている。

 

(つづく)