ふりびしゃにっき

四間飛車を愛するアマチュア将棋ファンが、気が向いたときに書くブログです。

ぼくの将棋歴⑨

ぼくの将棋歴⑧ - ふりびしゃにっき の続き

 

【大学4年春 手応え】

春シーズンでは、個人戦と古豪新鋭戦に出場した。

個人戦ではライバル校の準レギュラーに200手超えの熱戦の末惜敗、古豪新鋭戦ではその年の学生名人に終盤あわやの局面を作っての負け。実力を十二分に発揮し、強豪に対しても渡り合えたことは自信になった。

 

そんなこんなで、将棋部の中でも、秋の団体戦メンバー入りを争う部員の1人、としての認知はされるようになった。

ただ、結果だけが伴わなかったことが、後々に響いていったように思う。

 

対外試合を戦う上で、角交換四間飛車は大きな武器になった。経験のある形に誘導できさえすれば、どんな相手に対してもそれなりに戦える自信があった。

しかし、相振り飛車や相手が角道を開けてこない場合など、角交換四間飛車にならなかった時の対策は全くできていなかった。特に、対居飛車急戦に対する戦いのすべては、記憶の奥底にかすかに残る「島ノート」だけが頼りであった。

かといって、今更これを勉強し直す気は起きなかった。ぼくが将棋を再開したのは、角交換四間飛車を指しこなしたいからであって、ノーマル四間飛車を指したい訳ではなかった。

藤井先生がそうしたように、ノーマル四間飛車の研究は捨てたのだ(当時そう見えていただけで、藤井先生は全然四間飛車を捨ててなかったし、結局ぼくも四間飛車党に復活したけど)。

だから、角交換四間飛車ができなかったときは、心で舌打ちしながら、見よう見まねで中飛車などを指したり、むりやり力戦に持ち込んだりもした。

 

この歪んだプライドまがいのマイルールは、団体戦のメンバーになりたい!という気持ちと大きく矛盾していたのだが、それが露見するのはもう少し後の話である。

 

 

【大学4年 連盟道場・ネット対局】

薬学部では、大学4年になると研究室の生活となる。10時-17時がコアタイム(研究室にいなければならない時間)だったから、ぼくの将棋時間は、必然的にその後であった。

研究室帰りに連盟道場に通う日々が続いた。大学のキャンパスから千駄ヶ谷の連盟道場までは大体30分。18時過ぎから21時まで将棋を指した。

ナイタートーナメントという、19時開始のトーナメントが楽しみだった。初手から30秒将棋、考慮時間3回付の駒落ちトーナメントで、都合のつく限り毎回参加していた。優勝すると棋書や将棋世界の付録がもらえて、それを研究室の行き帰りに勉強したりもした。

連盟道場には主みたいな強い人たちもいて、その人たちと将棋を指して勉強した。

あとは、駒落ち対局も積極的に指した。6枚落ちや8枚落ちもたくさん指したが、実は道場通いで一番勉強になったのは、初段との角落ち戦だった。

強い初段に対しては、角落ちだとなかなか勝たせてもらえない。どのように複雑に嫌味をつけ、逆転するか。劣勢の時の耐え方みたいなものは、この初段角落ちで培ったものが大きい。

また、道場には特別対局室のカメラモニターが設置されていて、時々だが藤井先生の対局をリアルタイムにチェックすることができた。竜王戦トーナメントなど夜遅くまでかかる対局の時は、道場の常連さんや指導棋士さんたちとモニターを取り囲んで、ああでもないこうでもないと検討したりしていたのが懐かしい。

 

また、将棋倶楽部24を始めたのもこの頃である。連盟支部や将棋教室のOB会など、とにかくこの頃は将棋に触れる時間の確保に努めていた。

 

全ては、秋のために。団体戦メンバー争いも、夏を迎え秋を迎えると激しさを増していった。

 

 

【大学4年夏~秋 不調】

相変わらず、角交換四間飛車固執する日々が続いた。

見方を変えると、ぼくに対する対策は簡単だった。角道を開けなければよいのだ。

メンバー争いのライバルたちは、いつしか角道を開けてくれなくなっていた。互角の実力の相手に、不得手な形での戦いになると、当然勝率は下がる。将棋部研究会での順位は、夏から秋にかけて、じわじわと下がっていった。

 

この時期の順位低下は致命的である。ぼくは焦った。さすがに角交換四間飛車以外が丸腰じゃまずいと、付け焼刃でゴキゲン中飛車の勉強をしたりした(めちゃくちゃ苦行だった。ゴキゲン中飛車に興味がなかったから)。当然一夜漬けの知識では太刀打ちできない。完全に袋小路の状態であった。

今思えば、メンバー争いは将棋ではなく勝負であった。順位という結果を得るために大切なのは、勝負に対する執着心であった。その意味で、当時のぼくは勝負に徹し切れていなかった。角道を開けないライバルたちに苛立ち、結果が出ない自分に焦り、自分のフォームを変えようと無理をしていた。それでいて、指すことのない角交換四間飛車に執着していたのだ。

角交換四間飛車を指せば、勝っても負けても楽しい。でもそれでは、チームの勝利を目指す、団体戦メンバーとしては失格だ。

結局のところ、子供の頃に将棋教室の先生に言われた「勝負に対する姿勢」が、この期に及んで、いまだにぼくの最大の弱点だった。

 

普通の部員なら、1年生や2年生でこのような課題に直面し、思い悩み、迷走し、その中で自分なりの答えを見つけるものなのだろう。しかしぼくに残されていたチャンスは4年生の1回だけ。回り道が許されない分、結果が出ない期間は本当に苦しかった。

 

一時は順位を大幅に下げ、もうだめかと思ったところで少し復調し、秋の大会シーズンに突入した。

秋の個人戦では格上校の準レギュラー格に勝利したが、続く2日目進出を懸けた将棋を落とし、大きな名をあげることはできなかった。

部内戦では、部内のライバルたちとは5分くらいの成績に戻したくらいで、とうとう団体戦のメンバー発表の日になった。

 

結論を言えば、団体戦メンバーの最終案14人に、ぼくの名前は載らなかった。

 

(続く)