ふりびしゃにっき

四間飛車を愛するアマチュア将棋ファンが、気が向いたときに書くブログです。

ぼくの将棋歴⑥

 

ぼくの将棋歴⑤ - ふりびしゃにっき の続き

 

【高校 将棋から離れる】

高校には将棋部があり、進学校らしくそこそこ強いらしかった。

しかし、ぼくは将棋部への入部は全く考えなかった。

将棋を通じた社会の広がりに限界を感じたのと、高校でも卓球を続けたかったから。

囲碁同好会には勧誘されたけど(断った)、将棋部からはアプローチがなかったので、将棋部とのかかわりは一切ないまま、高校生活を送ることになった。

 

将棋からは距離を取った。

将棋大会に行くことも、連盟道場に行くことも、将棋ソフトを使うこともなくなった。

連盟支部は幽霊部員状態になった。

将棋に触れるのは年に1度、文化祭の将棋部ブースに行って、手ごろな部員と将棋を指すことくらいだった。

 

それでも、ネットや新聞で、藤井先生の活躍を追いかけることはやめなかった。

ぼくが将棋から離れようとも、藤井先生には四間飛車を指し続けてほしかった。

でも現実はそれすらも許してくれなかった。藤井先生はあろうことか矢倉を指すようになっていた。

四間飛車も、藤井システムも、この世に存在しない将棋界になってしまった。

藤井先生が指さない四間飛車には魅力を感じなくなってしまった。そして、将棋を指すことにも、拍車をかけて魅力を感じなくなっていった。

 

高校で卓球部を選んだのは、間違いではなかったと思っている。

実力的には最後まで準レギュラー格から抜け出せなかったけど、今生涯スポーツとして卓球を楽しめているのは、高校の3年間があったおかげだ。

高校の卓球部の友人とは今も親しくしており、社会の広がりという意味でもよい選択だったと思っている。

 

 

大学受験は熾烈を極めた。目指していた本郷行きのチケットは得られなかったけど、黄色い大学と臙脂色の大学に合格した。正直浪人しようかとも思ったけど、結局黄色い大学に行くことにした。

振り返れば、この選択がぼくを将棋に引き戻したひとつの要因だった。

おそらく、他の選択肢であれば、将棋に再び向き合うことは無かっただろう。

 

【大学1~2年 薬学部】

大学に入学し、新歓の季節になった。

正直、将棋に未練はなかった。だから、将棋部の見学には行かなかった。

大学でも、ぼくは薬学部内の卓球部で卓球を続けることにした。

 

高校卒業まで、7年間お世話になった塾でアルバイトをはじめた。

冷静に時給換算すると600円くらいにしかなってない、ブラックバイトの世界だった。

学生としての何かを犠牲にして働いたように思う。(でも、そこで得たバイト仲間は、バイトをやめた後でも、ぼくの貴重な財産になった。)

 

大学の講義は、正直めちゃくちゃつまんなかった。薬学部は薬剤師なるための予備校的な側面があって、生物学の横文字と薬効薬理の日本語の羅列を暗記するような講義だらけだった。

当然、成績は低空飛行を続けた。ぼくより成績の悪い人はみんな留年したんじゃないかな?

当時、薬学部には「再試験」という制度があり、定期試験で60点に満たなかった科目について、1科目2000円を支払って再試験を受験することができた。

ぼくは毎回「諭吉先生」単位で検定料を支払うありさまだった。

聞くところによると、ぼくが卒業したすぐ後に、再試験制度は廃止になったらしい。おそらく再試験がなければ、ぼくはどこかで留年していただろう。良い時代に生まれてよかった…。

 

大学・バイト・卓球。大学生のぼくはそれでいっぱいいっぱいだった。

しかし、ここから少しずつ、将棋の要素がここに加わってくる。

 

【大学2年春 先生の勇退

大学2年の3月に、将棋教室の先生が将棋教室を畳むことになった。

勇退の記念パーティーに招待されたので、感謝の意を伝えるためにも参加した。

式典が終わった後、先生にご挨拶に伺うと、

「せっかく将棋で仲間を作ったんだから、その縁を大切にしなさい」みたいなことを言われた。確かに将棋の縁を生かさないのはもったいないと思った。

 

別に、嫌いになって将棋をやめたわけではなかった。だから、再開することにも抵抗はなかった。

あと、「学生将棋」に参加しないまま社会人になるのも、なんだかもったいない気がした。学生時代にしかできないことは、やはり学生のうちに済ませておかなければ。

 

こうしてぼくは、少しずつ将棋の世界に戻っていくことになる。

 

(つづく)