ぼくの将棋歴⑩ 最終回
【大学4年秋 団体戦前夜のこと】
団体戦メンバーが発表され、ぼくはメンバー外となった。
告知の後、同学年の前主将が、ぼくのメンバー外について質問をしてくれたのが、唯一の救いだった。
その日の夜は眠れなかった。
やけくそでネット将棋を指したり、今まで指した棋譜を並べたりした。
4年生になって初めて部員になった、外様の自分がメンバー入りする壁の高さを思い知った。結果で実力を示すしかなかったのに、負けてばかりだった自分が情けなかった。
正直に言えば、こんな気持ちで明日応援に行ってもいいものかとも考えた。
メンバーを選ぶ本来の目的は、部内で勝つことではなく、対外試合でチームが勝つことだ。それなのに、自分の処遇に不満を覚える自分が、とても小さく思えてもしまった。
考えるほどに頭は冴え、夜は更けて次第に朝が近づいてきてしまった。
「今から寝て、起きれたら応援に行こう」
結局そう結論付けて、寝ることにした。
【団体戦初日の朝】
もともと、ぼくは朝に弱い。
寝坊したエピソードなど枚挙にいとまがなく、それゆえ今回も半ばあきらめていた。
しかし、この日だけは不思議と時間通りに目が覚めた。
起きてしまったからには応援に行くしかない。
目が覚めてしまった自分に、少しだけ腹が立った。
大会会場に行くと、状況は少し違ったものになっていた。
前日決めたメンバーのうちの1人が、急遽出場できなくなってしまったらしい。
そんなこんなで、ぼくは団体戦のメンバーに名を連ねることになったのだった。
【団体戦・そして引退】
イレギュラーな形ではあるが、将棋部に入るときの目標を達成することができた。
そして、幸運にも2局、団体戦での対局を経験することができた。
もちろん、採用したのは角交換四間飛車。研究した形をぶつけ、相手チームのエース格を苦しめることができたと思う。
結果はどちらも負けてしまったが、それもまた自分らしい…(貢献できずに申し訳ない気持ちはあったが…)。
団体戦メンバー争いから解放されると、不思議と調子が上向き、結果も伴うようになっていった。大学対抗リーグ戦終了後の王座戦出場校決定トーナメントでは、今度は実力でメンバー入りを勝ち取ることができた。
将棋部は4年生で引退になったが、大学院に進学した後も、古豪新鋭戦や学生選手権など、出場が許される大会では将棋部の後輩たちに交じって将棋を指させてもらった。
将棋を再開していなかったら、将棋部に入ろうと思っていなかったら、そしてあの日の朝寝坊していたら、今のぼくはいないだろう。
そして何より、どこの馬の骨かもわからない、しかも4年生の自分を快く受け入れてくれた将棋部の皆さんには、心から感謝している。
【あとがきに替えて】
長々と書いてしまったが、ここらへんでぼくの将棋歴の話は一区切りにしようと思う。
大学を卒業した後も、将棋との関わりは失っていない。
失恋の心の隙間を将棋で埋めてみたり、
将棋大会を求めて全国各地を巡ってみたり、
将棋部の同期や後輩たちと社団戦のチームをつくってみたり…
この辺のエピソードも、過去の話として振り返られる時が来たら、また筆を取ることにしようと思う。
最後に…
「将棋は人生だ!」
将棋部の同期が、時にイカれた目で叫んだ名言(迷言?)を思い出す。
改めて振り返ると、ぼくの人生の傍らには、常に将棋があった。
野良将棋少年だったころ。
将棋教室に通ったとき。
学校がつまらなかった中学生時代。
「勝負」と初めて真剣に向き合った、大学4年の熱い夏。
そして今も。
将棋だけが人生じゃない。
でも、ぼくの人生は、間違いなく将棋と共にあるのだ。
(おわり!)
ぼくの将棋歴⑨
【大学4年春 手応え】
春シーズンでは、個人戦と古豪新鋭戦に出場した。
個人戦ではライバル校の準レギュラーに200手超えの熱戦の末惜敗、古豪新鋭戦ではその年の学生名人に終盤あわやの局面を作っての負け。実力を十二分に発揮し、強豪に対しても渡り合えたことは自信になった。
そんなこんなで、将棋部の中でも、秋の団体戦メンバー入りを争う部員の1人、としての認知はされるようになった。
ただ、結果だけが伴わなかったことが、後々に響いていったように思う。
対外試合を戦う上で、角交換四間飛車は大きな武器になった。経験のある形に誘導できさえすれば、どんな相手に対してもそれなりに戦える自信があった。
しかし、相振り飛車や相手が角道を開けてこない場合など、角交換四間飛車にならなかった時の対策は全くできていなかった。特に、対居飛車急戦に対する戦いのすべては、記憶の奥底にかすかに残る「島ノート」だけが頼りであった。
かといって、今更これを勉強し直す気は起きなかった。ぼくが将棋を再開したのは、角交換四間飛車を指しこなしたいからであって、ノーマル四間飛車を指したい訳ではなかった。
藤井先生がそうしたように、ノーマル四間飛車の研究は捨てたのだ(当時そう見えていただけで、藤井先生は全然四間飛車を捨ててなかったし、結局ぼくも四間飛車党に復活したけど)。
だから、角交換四間飛車ができなかったときは、心で舌打ちしながら、見よう見まねで中飛車などを指したり、むりやり力戦に持ち込んだりもした。
この歪んだプライドまがいのマイルールは、団体戦のメンバーになりたい!という気持ちと大きく矛盾していたのだが、それが露見するのはもう少し後の話である。
【大学4年 連盟道場・ネット対局】
薬学部では、大学4年になると研究室の生活となる。10時-17時がコアタイム(研究室にいなければならない時間)だったから、ぼくの将棋時間は、必然的にその後であった。
研究室帰りに連盟道場に通う日々が続いた。大学のキャンパスから千駄ヶ谷の連盟道場までは大体30分。18時過ぎから21時まで将棋を指した。
ナイタートーナメントという、19時開始のトーナメントが楽しみだった。初手から30秒将棋、考慮時間3回付の駒落ちトーナメントで、都合のつく限り毎回参加していた。優勝すると棋書や将棋世界の付録がもらえて、それを研究室の行き帰りに勉強したりもした。
連盟道場には主みたいな強い人たちもいて、その人たちと将棋を指して勉強した。
あとは、駒落ち対局も積極的に指した。6枚落ちや8枚落ちもたくさん指したが、実は道場通いで一番勉強になったのは、初段との角落ち戦だった。
強い初段に対しては、角落ちだとなかなか勝たせてもらえない。どのように複雑に嫌味をつけ、逆転するか。劣勢の時の耐え方みたいなものは、この初段角落ちで培ったものが大きい。
また、道場には特別対局室のカメラモニターが設置されていて、時々だが藤井先生の対局をリアルタイムにチェックすることができた。竜王戦トーナメントなど夜遅くまでかかる対局の時は、道場の常連さんや指導棋士さんたちとモニターを取り囲んで、ああでもないこうでもないと検討したりしていたのが懐かしい。
また、将棋倶楽部24を始めたのもこの頃である。連盟支部や将棋教室のOB会など、とにかくこの頃は将棋に触れる時間の確保に努めていた。
全ては、秋のために。団体戦メンバー争いも、夏を迎え秋を迎えると激しさを増していった。
【大学4年夏~秋 不調】
見方を変えると、ぼくに対する対策は簡単だった。角道を開けなければよいのだ。
メンバー争いのライバルたちは、いつしか角道を開けてくれなくなっていた。互角の実力の相手に、不得手な形での戦いになると、当然勝率は下がる。将棋部研究会での順位は、夏から秋にかけて、じわじわと下がっていった。
この時期の順位低下は致命的である。ぼくは焦った。さすがに角交換四間飛車以外が丸腰じゃまずいと、付け焼刃でゴキゲン中飛車の勉強をしたりした(めちゃくちゃ苦行だった。ゴキゲン中飛車に興味がなかったから)。当然一夜漬けの知識では太刀打ちできない。完全に袋小路の状態であった。
今思えば、メンバー争いは将棋ではなく勝負であった。順位という結果を得るために大切なのは、勝負に対する執着心であった。その意味で、当時のぼくは勝負に徹し切れていなかった。角道を開けないライバルたちに苛立ち、結果が出ない自分に焦り、自分のフォームを変えようと無理をしていた。それでいて、指すことのない角交換四間飛車に執着していたのだ。
角交換四間飛車を指せば、勝っても負けても楽しい。でもそれでは、チームの勝利を目指す、団体戦メンバーとしては失格だ。
結局のところ、子供の頃に将棋教室の先生に言われた「勝負に対する姿勢」が、この期に及んで、いまだにぼくの最大の弱点だった。
普通の部員なら、1年生や2年生でこのような課題に直面し、思い悩み、迷走し、その中で自分なりの答えを見つけるものなのだろう。しかしぼくに残されていたチャンスは4年生の1回だけ。回り道が許されない分、結果が出ない期間は本当に苦しかった。
一時は順位を大幅に下げ、もうだめかと思ったところで少し復調し、秋の大会シーズンに突入した。
秋の個人戦では格上校の準レギュラー格に勝利したが、続く2日目進出を懸けた将棋を落とし、大きな名をあげることはできなかった。
部内戦では、部内のライバルたちとは5分くらいの成績に戻したくらいで、とうとう団体戦のメンバー発表の日になった。
結論を言えば、団体戦メンバーの最終案14人に、ぼくの名前は載らなかった。
(続く)
ぼくの将棋歴⑧
【大学3年 将棋部】
将棋を再開し、将棋教室のOBである他大学の将棋部員と交流する中で、
「学生将棋」というものに少しずつ興味を持つようになった。
初めて部室を訪れたのは、確か3年生の6月頃だったように思う。
部室には2~3人いて、そのうちの1人、2年生の青年と将棋を指すことになった。
角交換四間飛車を採用し、終盤まで難しい将棋だったが、負けてしまった。
感想戦では終盤の検討をみっちりやった気がする。
また来るという約束をして、その日は帰宅した。
部長を務めていた卓球部の活動が忙しく、次に行ったのは確か10月くらい。
その時はもっと人がいて、いろいろな人と将棋を指した。
同学年の3年生の人と序盤について熱く語り合った記憶がある。
とにかく、将棋を指すことが面白かったし、ぼくのような外様も受け入れてくれる土壌があったのはありがたかった(その土壌がなければ、今のぼくはないと思う)。
そして、土曜日に開催されている「研究会」に参加させてもらうことになった。
研究会では、30分切れたら30秒の将棋を3局指した。
うっかり癖は相変わらずで、中盤で必敗になったり、序盤で王手銀取りを掛けられたりしたけど、うまく粘って2連勝することができた。
3局目は次期主将の2年生が相手をしてくれた。やっぱり序盤で失敗して、妖しい手で粘ったけど全然歯が立たなかった。
「やっぱり強い人はミスをしないな~」とか、そんなことを思った。
【大学3年秋 古豪新鋭戦】
関東の大学将棋界では、春秋の団体戦シーズンの後に「古豪新鋭戦(非レギュラーの慰安戦的要素が強い大会)」を開催していた。
2日目に欠員が出るということだったので、飛び入りで参加させてもらうことになった。これがぼくの大学将棋デビュー戦である。
団体戦なのに何とも無責任だが、ピクニック気分で会場に行った記憶がある(勝負に甘い…?)。
3局指して、結果は3連敗だったように思う。内容的には満足いく将棋が多かったが、受ければ勝勢の将棋(その順も見えてる)を詰ましにいって逆転負けしたり、当時はまだまだ勝負に対する甘さがあった(つまり、小学生の頃に先生に注意されたことは全然改善できていない…)。
団体戦のメンバーには申し訳なかったが、大学将棋でもある程度やれる自信になった。
【大学4年春 入部】
大学4年になり、正式に将棋部に入部させてもらった。
「やっぱり本番の団体戦に出たい!」と思ったから。
将棋部で将棋に向き合うことをしないと、きっと後悔するから。
団体戦は春と秋2回あり、そのメンバーは研究会の結果や対外試合の結果を参考に決定される。
春のメンバーはすでにほとんど決まっていたから、ぼくは秋の団体戦でのメンバー入りに全てを懸けることになった。
当時は、「まぁ~レギュラー格にはなれなくても、メンバー入りはできるだろう」とか楽観的に考えていた。ライバルといえる準レギュラー格には勝ち越しており、その資格は十分とも思っていた。
しかし、その考えの浅はかさ、そして勝負の厳しさを、この1年間で思い知ることになる。
(つづく)
ぼくの将棋歴⑦
【大学2年春休み 角交換四間飛車との出会い】
将棋に再び向き合うにあたり、将棋教室のOB会に加入させてもらったり、将棋連盟支部に再び通いだしたり、将棋との接点の再構築には困らなかった。
その意味では、小学生中学生時代の貯金・顔が生きたのだと思う。
しかし、「四間飛車を指すのか?」という問題は、依然として残っていた。
「四間飛車衰退の理由」みたいな題名の本が出ていたくらい、当時の将棋界では四間飛車のプレゼンスは下がっていた。
「四間飛車=最先端の研究に着いていけなくなったベテランが指すもの」「振り飛車=楽だけど勝ちにくい」「振り飛車=千日手辞さずの受け身の戦法」「振り飛車=逃げ」みたいな風潮もあったと思う。
ぼくは、楽をするために四間飛車を指しているんじゃない。
もっと緻密で、先進的で、豪快で、隙あらば居飛車を攻め倒すような四間飛車を指したいのだ。
…でも、ぼくが将棋を離れた数年間で、どうやら世界は変わってしまったらしい。
じゃあ、どうする?
相居飛車を指す?…ありえない。
石田流?ゴキゲン中飛車?向かい飛車?…ありえない!
結局、ぼくには四間飛車しか選択肢がないのだ。四間飛車を指せないならば、「研究しがいのある」四間飛車を指せないならば、ぼくは将棋を好きになれないかもしれなかった。
そんなぼくを救ってくれたのも、藤井先生の将棋だった。
藤井先生は矢倉の世界から帰還し、また振り飛車を指すようになっていた。しかし、以前の違う点もある。「振り飛車から」角交換をするのだ。
藤井先生は角交換四間飛車を指すようになっていた。棋譜を並べると、藤井先生から仕掛け、居飛車を粉砕する将棋がいくつも見つかった。
これだ!
こうしてぼくは、「角交換四間飛車党」として、将棋の世界に戻っていくのである。
【大学3年春 リハビリ】
ぼくには「昇段の記録」がない。
中学1年で初段をもらってから、長らく道場や教室の類から遠ざかっていた。
大した勉強もしていなかった。だから、棋力が向上しているなんてことは想像もしていなかった。
話が前後するが、大学1年生の頃に、棋力の再認定をもらいに将棋道場を訪れた。
連盟道場では、初めての人や久々の人は「〇級」といって級位を設定せずに対局をつけ、その成績によって段級位を決定するルールになっている。
繰り返すが、中学時代も将棋教室の卒業後は勉強量は落ちたし、高校時代は前回のブログで書いたとおりだ。
想定外に、「四段」認定を受けてしまった。
四段というのは、〇級制度で認定を受けられる最高の段級位である。つまり、五段認定を受けるためには、道場内の勝ち数規定をクリアするしかない。知らない間に能力がカンストしてしまったような感覚だった。
そして、いまでもぼくは四段で指している。
ぼくには「○○をやったから強くなった!」みたいな成功体験がない。
だから、リアルのぼくを知っている人は、「どうしたら四段になれますか?」とか、「何をやって四段になりましたか?」みたいなことは、間違ってもぼくに聞かないでほしい。「5年くらい将棋から離れたらいいんじゃないですか?」みたいな、的外れな回答しかできないから。
閑話休題。
いざ久々に将棋に本腰を入れてみると、違和感のない部分と「なまっている」部分があった。
5年ぶりに将棋を指す割に、読みの部分では引けを取らなかった。
その代わり、うっかりやポカミスは多発した。そのせいで簡単に両取りをかけられたり、角の利きをうっかりしたり、敵陣に打ち込んだ角が1手詰めされてしまったり…。恥ずかしいミスは枚挙にいとまがない。
ちなみに、このうっかりミスは角交換四間飛車を指す上で致命的である。
角がデフォルトで駒台に乗っているから、うっかりすると角を打たれて飛び上がったり、うっかり角を打ち込んで詰まされてしまうのだ。
今でこそ、このようなうっかりは減ってきている(と思う)が…改善するまでには相当な時間がかかった。
それでも、将棋を嫌にならなかったのは、勝ち負けを過度に追い求めることなく、「楽しい将棋」を目指していたからだと思う。
複数の選択肢があれば、複雑な読みを要求される順を選んだ。攻めの手か受けの手か迷えば、必ず攻めの手を選んだ。前進か後退か迷えば、前進を選択した。選択の基準は、「その先に楽しい将棋が待っているか?」だった。
言い換えれば、局面の評価値が1000だろうと-1000だろうと、楽しい局面になるように指し手を選択していたから、将棋が楽しくないわけがなかった。
勝負に生きる今では考えられないことだが、当時の状況を思えば、その方針は間違っていなかったように思う。
藤井先生は、そのころ王位戦を戦っていた。
挑戦者決定戦の渡辺先生との対局は今でも記憶に残っている。「藤井システム!」「ひとつ、ひとつだ」「こわいよこわいよ」…大学の講義そっちのけで、解説コメントの一言一言を追いかけていた。
(つづく)
ぼくの将棋歴⑥
【高校 将棋から離れる】
高校には将棋部があり、進学校らしくそこそこ強いらしかった。
しかし、ぼくは将棋部への入部は全く考えなかった。
将棋を通じた社会の広がりに限界を感じたのと、高校でも卓球を続けたかったから。
囲碁同好会には勧誘されたけど(断った)、将棋部からはアプローチがなかったので、将棋部とのかかわりは一切ないまま、高校生活を送ることになった。
将棋からは距離を取った。
将棋大会に行くことも、連盟道場に行くことも、将棋ソフトを使うこともなくなった。
連盟支部は幽霊部員状態になった。
将棋に触れるのは年に1度、文化祭の将棋部ブースに行って、手ごろな部員と将棋を指すことくらいだった。
それでも、ネットや新聞で、藤井先生の活躍を追いかけることはやめなかった。
ぼくが将棋から離れようとも、藤井先生には四間飛車を指し続けてほしかった。
でも現実はそれすらも許してくれなかった。藤井先生はあろうことか矢倉を指すようになっていた。
四間飛車も、藤井システムも、この世に存在しない将棋界になってしまった。
藤井先生が指さない四間飛車には魅力を感じなくなってしまった。そして、将棋を指すことにも、拍車をかけて魅力を感じなくなっていった。
高校で卓球部を選んだのは、間違いではなかったと思っている。
実力的には最後まで準レギュラー格から抜け出せなかったけど、今生涯スポーツとして卓球を楽しめているのは、高校の3年間があったおかげだ。
高校の卓球部の友人とは今も親しくしており、社会の広がりという意味でもよい選択だったと思っている。
大学受験は熾烈を極めた。目指していた本郷行きのチケットは得られなかったけど、黄色い大学と臙脂色の大学に合格した。正直浪人しようかとも思ったけど、結局黄色い大学に行くことにした。
振り返れば、この選択がぼくを将棋に引き戻したひとつの要因だった。
おそらく、他の選択肢であれば、将棋に再び向き合うことは無かっただろう。
【大学1~2年 薬学部】
大学に入学し、新歓の季節になった。
正直、将棋に未練はなかった。だから、将棋部の見学には行かなかった。
大学でも、ぼくは薬学部内の卓球部で卓球を続けることにした。
高校卒業まで、7年間お世話になった塾でアルバイトをはじめた。
冷静に時給換算すると600円くらいにしかなってない、ブラックバイトの世界だった。
学生としての何かを犠牲にして働いたように思う。(でも、そこで得たバイト仲間は、バイトをやめた後でも、ぼくの貴重な財産になった。)
大学の講義は、正直めちゃくちゃつまんなかった。薬学部は薬剤師なるための予備校的な側面があって、生物学の横文字と薬効薬理の日本語の羅列を暗記するような講義だらけだった。
当然、成績は低空飛行を続けた。ぼくより成績の悪い人はみんな留年したんじゃないかな?
当時、薬学部には「再試験」という制度があり、定期試験で60点に満たなかった科目について、1科目2000円を支払って再試験を受験することができた。
ぼくは毎回「諭吉先生」単位で検定料を支払うありさまだった。
聞くところによると、ぼくが卒業したすぐ後に、再試験制度は廃止になったらしい。おそらく再試験がなければ、ぼくはどこかで留年していただろう。良い時代に生まれてよかった…。
大学・バイト・卓球。大学生のぼくはそれでいっぱいいっぱいだった。
しかし、ここから少しずつ、将棋の要素がここに加わってくる。
【大学2年春 先生の勇退】
大学2年の3月に、将棋教室の先生が将棋教室を畳むことになった。
勇退の記念パーティーに招待されたので、感謝の意を伝えるためにも参加した。
式典が終わった後、先生にご挨拶に伺うと、
「せっかく将棋で仲間を作ったんだから、その縁を大切にしなさい」みたいなことを言われた。確かに将棋の縁を生かさないのはもったいないと思った。
別に、嫌いになって将棋をやめたわけではなかった。だから、再開することにも抵抗はなかった。
あと、「学生将棋」に参加しないまま社会人になるのも、なんだかもったいない気がした。学生時代にしかできないことは、やはり学生のうちに済ませておかなければ。
こうしてぼくは、少しずつ将棋の世界に戻っていくことになる。
(つづく)
ぼくの将棋歴⑤
【中学1年 卒業】
中学生になった。結局将棋教室は続けることになった。
「初段になって、正式に卒業する。」
これが唯一のモチベーションだった。
中学生カテゴリーの全国大会に繋がる県大会では、Aクラスへの参加が許された。
正直、勝敗は覚えていない。ただ、圧倒的な実力差を感じた記憶はある。
「ああ、これがぼくの限界か」
そんなことを考えたりしていた気がする。
中学校では卓球部に入った。
「上が目指せる部活に入りたい」という理由だった。
卓球部には熱血の顧問の先生がいて、週6.5回練習があるような環境だった。
将棋との両立は、どう見ても難しい状況だった。中学校の朝読書の時間に将棋の本を持ち込み、詰将棋をちょっとやる、それくらいが精いっぱいだったように思う。
将棋教室のある土曜日も、もちろん毎週のように部活があった。
午前中に部活があるときは、部活の後ダッシュで家に帰り、送りの車の中でお昼ご飯を食べて教室に出席した。
もちろん、午後に部活があるときは教室を休んだ。
初段にはあと少し届かないような状況だった。勝ちを焦って足下を掬われるのは相変わらずであった。ただただ、ぼくは時間を無駄にしていた。
そのうち部活が本当に忙しくなって、なかなか教室に出席できなくなっていった。
教室では、半年ごとに期末の大会を開催し、退会を選択する生徒はこの大会を区切りにするのが常であった。
結論から言えば、中学1年の上半期をもって、ぼくは将棋教室を退会した。
結局教室の中では初段に上がれなかったので、「卒業」はできなかったのだ。
エリートたちは文句なく、初段の壁を越えて卒業していくというのに。やはりぼくは、エリートの仲間ではないらしい。そのことがはっきり分かったのがこの時だった。
退会のはなむけに、先生から初段を認めてもらった。
「初段の免状は、取っておきなさい」と言われたので、親にお願いして買ってもらった。森内竜王と羽生名人だったと思う。本当は藤井先生の揮毫が欲しかったけど仕方ない。
先生と教室にはとても感謝している。かつて野良将棋少年だったぼくは、将棋は勝負であること、礼儀やマナーの大切さ、そして同年代の将棋仲間。そのすべてを、この将棋教室での1年9か月で手に入れることができた。
その仲間たちは、今でもぼくの財産になっている。
【中学2年 支え】
卓球部の熱血顧問は、中学2年に進級するときに異動してしまった。
卓球部の練習は週5.5~6日になり、つまり休みの日は暇になってしまった。
中学校には友達がいなかった。中学2年のころが一番悲惨で、あまり思い出したくない日々が続いた。つまり、授業を受けて部活をやる以外はやることがなかった。
暇になった時の支えは、やっぱり将棋だった。
将棋教室のかわりに、将棋連盟の支部会員になって、その活動に参加したり、連盟道場にまた通ったりした。
それでも基本は、野良将棋指し時代の再現だった。
将棋ソフト、定跡書にネット将棋(yahooのゲームだった気がする)をした。
将棋をしている間は、荒れ果ててしまった部活やクラスメイトのことなどを考えずに済んだ。
野良将棋指しの期間が長くてよかった。孤独な時間のつぶし方を知っていてよかった。
【中学3年 ささやかなご褒美】
中学生カテゴリーの将棋大会では、悲惨な成績を叩き出していた。
Aクラスに出続けていたものの、1つ勝てれば上出来で、15人中13位とか、とにかく低空飛行を続けていた。
その年の県予選は、個人戦県代表を決める戦いの他にもう一つ重要な意味があった。
文部科学大臣杯という都道府県対抗の団体戦のメンバー選考に、5月6月の2回の県大会の結果が使われるのだ。
実力的には無関係かもしれないけど、ワンチャンスくらいはあるかもと、ひそかに狙っていた。
将棋教室の先生からストップがかかった。
「お前はAクラスでは実力不足だし、見合う努力もしていないように見える。Bクラスで出たらどうだ。」と言われた。
青天の霹靂だった。確かに県トップクラスには歯が立たなかったけど、入賞レベルの学生にはずっと惜しい将棋を指せていた。だからどうしても、Aクラスで指したかった。
最終的に、先生はAクラスでの参加を認めてくれた。だけど、次はない。結果で示す必要があった。
幸いに、1回戦では同格の相手を引くことができた。会心の将棋で勝利した。
2回戦のことはよく覚えている。格上の相手に対して先手藤井システムで挑み、難しい戦いだったが次第に旗色が悪くなってしまった。
ついにぼくの玉に詰みが発生した。ぼくはもう一手指して投了するつもりだった。もう一手指したのは、二歩の筋が一応あったからだ。
ぼくは完全にあきらめていた。やはり、無謀な挑戦だったのだ。次の大会では潔くBクラスに下がろう。。。
果たして、相手は駒台の歩を掴み、禁手となる場所に放ってしまった。
そんなわけで、ぼくは文部科学大臣杯の切符を手にすることになった。
(部活の県大会の都合で辞退することになるのだが…)
また、この年から創設された中学校対抗の団体戦では、初代県王者になった。
この決勝戦も思い出深く、激戦の末ぼくの相手が3手詰めを逃し、それが決勝点になった。
この2つの奇跡のような結果は、もしかしたら将棋の神様からのささやかなご褒美だったのかもしれない。過程はどうあれ、名を残すのは誇らしいことだ。
そんなこんなで、ぼくは高校生になった。
高校には将棋部があって、県内ではそこそこ優秀な成績を上げているようだった。
でも、ぼくは将棋部には入らなかった。
それどころか、ぼくは全く将棋を指さなくなったのだ。
(つづく)
ぼくの将棋歴④
【小学6年夏 団体戦・連盟道場】
夏休みのメインディッシュは「将棋教室対抗団体戦」だった。
当時は教室間での交流は今と比べ物にならないくらい薄く、せいぜい「あの地区には○○という教室があるらしい」といった未確認情報が流れるくらいだったから、見知らぬ教室の見知らぬ少年少女と将棋が指せるのはわくわくした。
団体戦は3人制で、強いAクラスとそこそこのBクラスに分かれていた。
ぼくは将棋教室のBクラスのチームに選抜された。同級生3人のチームだった。
結果は準優勝。決勝では静岡からの遠征組にやられてしまったけど、満足のいく結果だった。
渋谷東急のイベントスペースでは、物販で棋書が並んでおり、どうしても欲しかったので、母親におねだりして、帰りに本を買ってもらった。
やっぱり藤井先生は、ぼくのアイドルだ。
もう1つ、将棋教室では「対局見学会」というものが開催されていた。
将棋連盟でのプロの対局を、開始から10分程度見学させていただく機会だ。
前の年の12月に入会したぼくは、この時初めて連盟の3階以上に足を踏み入れた。
(もっとも、3階以上に行ったのはこの時が最後であるが…)
佐藤秀司先生の対局だったように思う。凄く貴重な体験をさせていただいた。
対局見学会の後は、2階の連盟道場で対局をした。
実は、ぼくはこのチャンスを狙っていた。
「教室で7級の子が、連盟道場で初段認定された」という逸話は有名であった。
教室の級位認定は厳しいので、外に出ると教室の級より上で認定されることが多いらしい。
ぼく達は二匹目のどじょうを夢見て、道場の扉を叩いた。
結果は…確か4級くらいの認定。教室のそれと変わらなかった気がする。
それが悔しくて、それから連盟道場に通うようになった。
後の奨励会員や、アマ級位者時代の香川女流などと対局したのはいい思い出だ。こどもスクールのエリート達にもみくちゃにされながら、小学生のうちに1級まではたどり着いた。
(手合い係から「香川くん」とアナウンスされた香川女流が、めっちゃブチ切れていたのを覚えている。番長は当時から番長なのだ…。)
【小学6年生冬 次のステップ】
ぼくは着実に力を付けていた。5年生の時Cクラス準優勝した2月の県大会では、Bクラスで準優勝。地元の小学校対抗の団体戦では、優勝を果たした。
隣町の将棋大会では、当時2級だったのをごまかし、二段以上のAクラスに参加した。
望外に3連勝し、次の相手はこども将棋教室のOB。ぼくの2つ下のエリート。ぼくがようやく将棋教室の扉を叩いたころ、彼はもう将棋教室を巣立とうとしていたのだ。
卒業した後、彼は研修会に行っているようだった。歩みを止めていなかったのだ。客観的にみれば、ぼくの勝利は望むべくもない。そんな状況だった。
これまた予想外に、将棋は難解を極めた。200手を超える熱戦、4回戦でぼくたちが最後の1局になり、優勝争いも相まって多くのギャラリーを背負いながらの将棋となった。
結果は負け。死力を尽くし、5回戦は全く将棋にならなかった。でも、エリート集団の影を、ここで踏むことができた気がした。
それでも将棋教室で上手く昇級できなかったのは、先生が言うところの「甘さ」が抜けていなかったのだろうと思う。ぼくは下級者に圧倒的差で勝とうとし、結構な確率で足を掬われていた。細い攻めを繋げようとして切らしてしまったり、攻めを急いで急所を突かれてしまったりということは日常茶飯事だった。
今思うに、「甘さ」の逆は「丁寧さ」「勝負に対する辛さ」だったのだろう。
この問いは今でも、ぼくの将棋のアキレス腱になっている。
気づけば小学校生活も幕を閉じようとしていた。
大会で二段を名乗ろうとも、将棋教室では2級である。
教室卒業の目安として、「初段認定」というものがあった。エリートたちは入品して、次のステップへ進むのだ。その意味では、当時のぼくは卒業要件を満たしていない。
一方で、隣町で「将棋の強い子供を集めて、育てよう」という動きが出ていた。もう、教室に目立ったライバルはいなくなっていた。高みを目指すならば、そこへ行くのが良策だったし、何とかやっていける自信もついていた。
でも、中学校では部活も運動部をちゃんとやりたかった。
① 将棋教室を中退し、将棋訓練所に行く。部活はなし。
② 将棋教室卒業を目指し、部活も頑張る。
そのほかにも選択肢はあったけど、現実的にはこの2つに1つだった。
教室の先生も親身になってくれて、毎晩相談に乗ってくれた。ぼくの将棋人生の大きな岐路だった。
高みを目指すには、12歳という年齢は決して若くない。
むしろ、ギリギリアウトかも、といったところか。
ここで②を目指すことはある意味、将棋をあきらめることであった。
だからこそ、ものすごく悩んだ。当然、両親の意向も大きく影響した。
こうしてぼくは、将棋をあきらめた。
(つづく)