ふりびしゃにっき

四間飛車を愛するアマチュア将棋ファンが、気が向いたときに書くブログです。

ぼくの将棋歴④

ぼくの将棋歴③ - ふりびしゃにっき の続き

 

【小学6年夏 団体戦・連盟道場】

夏休みのメインディッシュは「将棋教室対抗団体戦」だった。

当時は教室間での交流は今と比べ物にならないくらい薄く、せいぜい「あの地区には○○という教室があるらしい」といった未確認情報が流れるくらいだったから、見知らぬ教室の見知らぬ少年少女と将棋が指せるのはわくわくした。

 

団体戦は3人制で、強いAクラスとそこそこのBクラスに分かれていた。

ぼくは将棋教室のBクラスのチームに選抜された。同級生3人のチームだった。

結果は準優勝。決勝では静岡からの遠征組にやられてしまったけど、満足のいく結果だった。

谷東急のイベントスペースでは、物販で棋書が並んでおり、どうしても欲しかったので、母親におねだりして、帰りに本を買ってもらった。

「無我」のサインが入った、「最強 藤井システム」。

やっぱり藤井先生は、ぼくのアイドルだ。

 

もう1つ、将棋教室では「対局見学会」というものが開催されていた。

将棋連盟でのプロの対局を、開始から10分程度見学させていただく機会だ。

前の年の12月に入会したぼくは、この時初めて連盟の3階以上に足を踏み入れた。

(もっとも、3階以上に行ったのはこの時が最後であるが…)

佐藤秀司先生の対局だったように思う。凄く貴重な体験をさせていただいた。

 

対局見学会の後は、2階の連盟道場で対局をした。

実は、ぼくはこのチャンスを狙っていた。

「教室で7級の子が、連盟道場で初段認定された」という逸話は有名であった。

教室の級位認定は厳しいので、外に出ると教室の級より上で認定されることが多いらしい。

ぼく達は二匹目のどじょうを夢見て、道場の扉を叩いた。

 

結果は…確か4級くらいの認定。教室のそれと変わらなかった気がする。

それが悔しくて、それから連盟道場に通うようになった。

後の奨励会員や、アマ級位者時代の香川女流などと対局したのはいい思い出だ。こどもスクールのエリート達にもみくちゃにされながら、小学生のうちに1級まではたどり着いた。

(手合い係から「香川くん」とアナウンスされた香川女流が、めっちゃブチ切れていたのを覚えている。番長は当時から番長なのだ…。)

 

 

【小学6年生冬 次のステップ】

ぼくは着実に力を付けていた。5年生の時Cクラス準優勝した2月の県大会では、Bクラスで準優勝。地元の小学校対抗の団体戦では、優勝を果たした。

 

隣町の将棋大会では、当時2級だったのをごまかし、二段以上のAクラスに参加した。

望外に3連勝し、次の相手はこども将棋教室のOB。ぼくの2つ下のエリート。ぼくがようやく将棋教室の扉を叩いたころ、彼はもう将棋教室を巣立とうとしていたのだ。

卒業した後、彼は研修会に行っているようだった。歩みを止めていなかったのだ。客観的にみれば、ぼくの勝利は望むべくもない。そんな状況だった。

これまた予想外に、将棋は難解を極めた。200手を超える熱戦、4回戦でぼくたちが最後の1局になり、優勝争いも相まって多くのギャラリーを背負いながらの将棋となった。

結果は負け。死力を尽くし、5回戦は全く将棋にならなかった。でも、エリート集団の影を、ここで踏むことができた気がした。

 

それでも将棋教室で上手く昇級できなかったのは、先生が言うところの「甘さ」が抜けていなかったのだろうと思う。ぼくは下級者に圧倒的差で勝とうとし、結構な確率で足を掬われていた。細い攻めを繋げようとして切らしてしまったり、攻めを急いで急所を突かれてしまったりということは日常茶飯事だった。

今思うに、「甘さ」の逆は「丁寧さ」「勝負に対する辛さ」だったのだろう。

この問いは今でも、ぼくの将棋のアキレス腱になっている。

 

 

気づけば小学校生活も幕を閉じようとしていた。

大会で二段を名乗ろうとも、将棋教室では2級である。

教室卒業の目安として、「初段認定」というものがあった。エリートたちは入品して、次のステップへ進むのだ。その意味では、当時のぼくは卒業要件を満たしていない。

 

一方で、隣町で「将棋の強い子供を集めて、育てよう」という動きが出ていた。もう、教室に目立ったライバルはいなくなっていた。高みを目指すならば、そこへ行くのが良策だったし、何とかやっていける自信もついていた。

でも、中学校では部活も運動部をちゃんとやりたかった。

① 将棋教室を中退し、将棋訓練所に行く。部活はなし。

② 将棋教室卒業を目指し、部活も頑張る。

そのほかにも選択肢はあったけど、現実的にはこの2つに1つだった。

教室の先生も親身になってくれて、毎晩相談に乗ってくれた。ぼくの将棋人生の大きな岐路だった。

 

高みを目指すには、12歳という年齢は決して若くない。

むしろ、ギリギリアウトかも、といったところか。

ここで②を目指すことはある意味、将棋をあきらめることであった。

だからこそ、ものすごく悩んだ。当然、両親の意向も大きく影響した。

 

 

こうしてぼくは、将棋をあきらめた。

 

(つづく)