ふりびしゃにっき

四間飛車を愛するアマチュア将棋ファンが、気が向いたときに書くブログです。

ぼくの将棋歴⑤

ぼくの将棋歴④ - ふりびしゃにっき の続き

 

【中学1年 卒業】

中学生になった。結局将棋教室は続けることになった。

「初段になって、正式に卒業する。」

これが唯一のモチベーションだった。

 

中学生カテゴリーの全国大会に繋がる県大会では、Aクラスへの参加が許された。

正直、勝敗は覚えていない。ただ、圧倒的な実力差を感じた記憶はある。

「ああ、これがぼくの限界か」

そんなことを考えたりしていた気がする。

 

中学校では卓球部に入った。

「上が目指せる部活に入りたい」という理由だった。

卓球部には熱血の顧問の先生がいて、週6.5回練習があるような環境だった。

将棋との両立は、どう見ても難しい状況だった。中学校の朝読書の時間に将棋の本を持ち込み、詰将棋をちょっとやる、それくらいが精いっぱいだったように思う。

 

将棋教室のある土曜日も、もちろん毎週のように部活があった。

午前中に部活があるときは、部活の後ダッシュで家に帰り、送りの車の中でお昼ご飯を食べて教室に出席した。

もちろん、午後に部活があるときは教室を休んだ。

初段にはあと少し届かないような状況だった。勝ちを焦って足下を掬われるのは相変わらずであった。ただただ、ぼくは時間を無駄にしていた。

そのうち部活が本当に忙しくなって、なかなか教室に出席できなくなっていった。

 

教室では、半年ごとに期末の大会を開催し、退会を選択する生徒はこの大会を区切りにするのが常であった。

結論から言えば、中学1年の上半期をもって、ぼくは将棋教室を退会した。

結局教室の中では初段に上がれなかったので、「卒業」はできなかったのだ。

エリートたちは文句なく、初段の壁を越えて卒業していくというのに。やはりぼくは、エリートの仲間ではないらしい。そのことがはっきり分かったのがこの時だった。

 

退会のはなむけに、先生から初段を認めてもらった。

「初段の免状は、取っておきなさい」と言われたので、親にお願いして買ってもらった。森内竜王と羽生名人だったと思う。本当は藤井先生の揮毫が欲しかったけど仕方ない。

先生と教室にはとても感謝している。かつて野良将棋少年だったぼくは、将棋は勝負であること、礼儀やマナーの大切さ、そして同年代の将棋仲間。そのすべてを、この将棋教室での1年9か月で手に入れることができた。

その仲間たちは、今でもぼくの財産になっている。

 

 

【中学2年 支え】

卓球部の熱血顧問は、中学2年に進級するときに異動してしまった。

卓球部の練習は週5.5~6日になり、つまり休みの日は暇になってしまった。

中学校には友達がいなかった。中学2年のころが一番悲惨で、あまり思い出したくない日々が続いた。つまり、授業を受けて部活をやる以外はやることがなかった。

 

暇になった時の支えは、やっぱり将棋だった。

将棋教室のかわりに、将棋連盟の支部会員になって、その活動に参加したり、連盟道場にまた通ったりした。

それでも基本は、野良将棋指し時代の再現だった。

将棋ソフト、定跡書にネット将棋(yahooのゲームだった気がする)をした。

将棋をしている間は、荒れ果ててしまった部活やクラスメイトのことなどを考えずに済んだ。

野良将棋指しの期間が長くてよかった。孤独な時間のつぶし方を知っていてよかった。

 

 

【中学3年 ささやかなご褒美】

中学生カテゴリーの将棋大会では、悲惨な成績を叩き出していた。

Aクラスに出続けていたものの、1つ勝てれば上出来で、15人中13位とか、とにかく低空飛行を続けていた。

その年の県予選は、個人戦県代表を決める戦いの他にもう一つ重要な意味があった。

文部科学大臣杯という都道府県対抗の団体戦のメンバー選考に、5月6月の2回の県大会の結果が使われるのだ。

実力的には無関係かもしれないけど、ワンチャンスくらいはあるかもと、ひそかに狙っていた。

 

将棋教室の先生からストップがかかった。

「お前はAクラスでは実力不足だし、見合う努力もしていないように見える。Bクラスで出たらどうだ。」と言われた。

青天の霹靂だった。確かに県トップクラスには歯が立たなかったけど、入賞レベルの学生にはずっと惜しい将棋を指せていた。だからどうしても、Aクラスで指したかった。

最終的に、先生はAクラスでの参加を認めてくれた。だけど、次はない。結果で示す必要があった。

 

幸いに、1回戦では同格の相手を引くことができた。会心の将棋で勝利した。

2回戦のことはよく覚えている。格上の相手に対して先手藤井システムで挑み、難しい戦いだったが次第に旗色が悪くなってしまった。

ついにぼくの玉に詰みが発生した。ぼくはもう一手指して投了するつもりだった。もう一手指したのは、二歩の筋が一応あったからだ。

ぼくは完全にあきらめていた。やはり、無謀な挑戦だったのだ。次の大会では潔くBクラスに下がろう。。。

 

果たして、相手は駒台の歩を掴み、禁手となる場所に放ってしまった。

そんなわけで、ぼくは文部科学大臣杯の切符を手にすることになった。

(部活の県大会の都合で辞退することになるのだが…)

 

また、この年から創設された中学校対抗の団体戦では、初代県王者になった。

この決勝戦も思い出深く、激戦の末ぼくの相手が3手詰めを逃し、それが決勝点になった。

この2つの奇跡のような結果は、もしかしたら将棋の神様からのささやかなご褒美だったのかもしれない。過程はどうあれ、名を残すのは誇らしいことだ。

 

 

そんなこんなで、ぼくは高校生になった。

高校には将棋部があって、県内ではそこそこ優秀な成績を上げているようだった。

でも、ぼくは将棋部には入らなかった。

それどころか、ぼくは全く将棋を指さなくなったのだ。

 

 

(つづく)